L.J.C.における「音楽」の定義

教会

今、私たちLJCはアンサンブル演奏を通して”音楽”というものを探求しています。

皆さんにとっても音楽はもちろん身近な存在だとは思いますが、いざ音楽というものの定義をしろと言われると答えにつまってしまうのではないでしょうか?音楽ってなんでしょうね?

ここで、音楽を“表現の手段”であると仮定して考えてみたいと思います。まず表現するということがどのような図式で成り立っているかを考えてみましょう。

音楽の表現を実現するためには大きく分けて以上のような鼎立が前提となります。

作曲家は自分の音楽を演奏家に伝えるための道具として楽譜を使います。
そして自分の思い描いた音楽を演奏家が具現化することによってカタルシスを得ます。
また聞き手にその音楽が伝わることにより、自分の音楽的感動を他者と共感できたのだという充足感も生まれることでしょう。

一方、聴衆はただ作曲家の音楽を享受し、その表現を楽しむというありかたです。そして両者の媒介役として演奏家が存在します。

ところで演奏家とはどのような存在なのでしょうか?

  私たちL.J.C.も演奏家としての本分とは何かを考えてみることがしばしばあります。
仕事のための演奏にも趣味としての演奏にも共通して言えることですが、現代の演奏家の演奏というものには何かしら不純なものがまぎれ込んでいるようです。
金のため、名声のため、自尊心の高揚のため、そのような不純な動機から発した音楽などは論外として、高度な演奏技術を披露して喜びを感じるために演奏活動をするという演奏家が意外に多く存在するようです。
このような音楽を否定するわけではありませんが、これではただの“芸”であり、“音楽そのもの”を楽しんでいるとは思えません。
芸も極まれば“芸術”となることもあるでしょうが、私たちL.J.C.は音楽を芸術とは思っていません。

  では単に楽曲を楽譜どおりに完璧に演奏するというスタイルはどうでしょうか?
確かに作曲家の意図が聞き手に伝わる場合もあるでしょう。
日本の演奏家の中にはこのような考えかたを持たれている人も多いようです。しかし最近のシンセサイザー音源の著しい発達を考えてみてください。一般の人には生演奏と区別がつかないほどの音を作り出せる音源が現われてきています。
後者の考え方であればコンピューターに任せればよいことになってしまいます。

では演奏家、そして演奏家の音楽というものはどうあるべきなのでしょうか?
いろいろな意見があると思いますが、ひとつの手がかりとして“音そのものの表現”ということを考えてみたいと思います。

楽譜というものは作曲家が考えた表現を視覚で伝える道具、いわば言葉です。
この“言葉”というものは厄介で、自分の意図を正確に他者に伝えるのは非常に難しいことです。
たとえば「かねをくれたのむ」という文章は句読点のつけ方によって意味が変わってしまいます。
「金をくれた。飲む。」とも「金をくれ、頼む」とも解釈できます。
それと同様のことが音楽にもあてはまります。
フォルテひとつにしてもその表現はひとつではありません。やさしいフォルテ、うるさいフォルテ、暑いフォルテ、涼しいフォルテなど。
しかし、楽譜にはそこまでの細かい記述がされることはありません。楽譜というものは決して完全なものではないのです。
が、この点にこそ演奏家の存在価値が見出せるのではないでしょうか?

人によって自己表現の仕方が多種多様であるように、音楽の表現も多種多様です。
色々な人間が多様な音楽性を持ち寄って演奏する単位、それがアンサンブルであると思います。
そのような集団であるからこそ “いい音楽” ができるのではないでしょうか?

近年、ヨーロッパの演奏家は多様に変化を遂げています。
指揮者から与えられた枠組みの中で受動的に演奏するのではなく、主体的に演奏者が音楽の心をどんどん表現していくというスタイルが若い演奏家のスタンダードとなりつつあります。
そのような演奏家が演奏をすると、ひとつの曲が驚くほど多種多様な表情を見せてくれるのです。
彼らは技術力の差など恐れることなく、ほんとうに楽しそうにのびのびと音楽を表現しています。
私たちL.J.C.も素晴らしい音楽を求めてそのような演奏活動を続けていきたいと思っております。



Valid XHTML 1.0 Transitional